2009年09月30日

言葉遣いって大事なんですよ 幾つ当てはまりますか?

みなさんもよくご存知の良寛さんの自戒のお言葉
・言葉の多き・口の早き・慌ただしくものを言う・もの言いのくどさ・さしで口・オレがこうした・人のもの言いきらぬうちに言う・我が事を強いて言い聞かさんとする・人の話を邪魔する・鼻であしらう・酒に酔いて理を言う・おのが意地を言い通す・過ちを飾る・引用の多き・好んで唐言葉を使う・田舎者の江戸言葉・学者くさき話・風雅くさき話・悟りくさき話・茶人くさき話・たやすく約束をする・人にものくれぬ先の何々やろう・くれて後その事を人に語る・返らぬ事をくどくど口説く・推して謀をまことに為して言う・己が氏素性の高き事を人に語る・ものの講釈したがる・可笑しきなき事を笑う・子供をたらしすかしてなぐさむ・憎き心をもちて人を叱る・・・・
まぁこれだけよくぞ観察したものだと感心するものである。
これでは年寄りが煙たがられるのは当然かもしれない。

そこのあなた、幾つ当てはまったんですか?残念ながら私にはほぼ全部に????が当てはまりました。

ページの先頭へ

2009年09月29日

人生のオンとオフ。頭を切り替えて《遊び心》を持つ

「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり じっと手をみる」  石川啄木の詩だ。
昔から「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言う。
働くと言うのは「傍」を「楽」にするためだと言われて、戦前から戦後の復興期にかけて、日本人はよく働いてきた。
それが戦後50年を経過するうちに、働く事は美徳ではなく、余暇活用、《遊び》の方が美徳のように価値観が変わってしまった。
独身貴族と言う言葉もあるくらいだ。マイカー、マンション、海外旅行と《遊ぶ》ための資金がほしくて、やむを得ず《働く》。
労働や仕事に対して自己実現の形が変わってきた。
それでも変わらないのが中高年の人たちだ。
「二宮金次郎」的なイメージから一歩も抜け出せていないでいる。
技術革新の波についていけず、絶えず「窓際族」「リストラ」の対象にされる不安にさいなまれている。
周りが「楽」になって、自分だけが「苦しむ」のでは割が合わない。今まで何のために生きてきたのか。
考え方の大転換が必要だ。
我々の仲間にも仕事が趣味とうのがいる。仕事場が何より大好き。
家にいるより落ち着く、なんて事をしゃぁしゃぁと言う。
(自分も言っているらしいが)こんな奴に限って本当は趣味を持った奴や、自分の好きな仕事をしている奴を羨ましく思っていたりする。
イタリア人が好きな言葉に「ゴディアーモチ・ラ・ビータ!」(人生を楽しもうじゃないか)と言うのがある。
日本人は勤勉を美徳と思っているふしがある。遊びは罪悪ではなく、また単なるレジャーではなく、心のゆとりから生じる、精神のリフレッシュである。そう自分に問いかけてみたくなる。

ページの先頭へ

2009年09月28日

今日は老いについて考えてみた

中国の諺に「一笑一若、一怒一老」という言葉があります。
読んで字にごとく、一回笑えば、それだけで若くなり、一回怒ると、それだけで老け込んでしまう。そういう意味だ。
日本にも「笑う門には福が来る」という、コレと似た諺がある。
老人の中にも、笑いを忘れ、年中苦虫を噛み潰したような顔をした人がいるかと思えば、瞬間湯沸かし器のように、すぐに怒り出す癇癪持ちのお年寄もいる。ストレスが溜まっては身体に良くないはずだ。
その点、「笑い」はいい。笑いは、ストレスを発散させて、ボケを遠ざける。その上、人間関係を明るくスムーズにする。
だから「老人」になるよりも「朗人」になって、笑顔をふりまこう。笑って生きれば、きっと笑って大往生が出来るはずだ。
年を重ねて、皆から愛されるかどうかは、社会的な地位や財産の有無などではなくて、人生を歩んできた中で得た「付加価値」であると思う。「付加価値」は目に見えないから説明が難しいけれど、昨日今日でつくものではない。苦労したり、努力したり、遊んだり、失敗したり、それら成長していく過程での経験のつみ重ねが、人間的魅力として光ってくるように思う。
こういう人は、物事にくよくよしたり、執着したりしない。
常に前向きで楽観的、いわゆるプラス思考の持ち主だ。
また、いつも謙虚で傲慢な態度を見せない。
自分ひとりで生きているという思い上がった気持ちはなく、皆に支えられて自分は生かされているとの感謝の念を持っている。

ページの先頭へ

2009年09月27日

釣りをまた始めるとするか・・・

今日は久しぶりに岡山に出張だ。
2ヶ月に一回、講習会がある。
今まで何となく行っていたが、今回も前回同様今までのおさらいの様な内容ではあるが、この歳になってもまだまだ新しいことを吸収する頭が残っていることには驚かされる。
歯医者の勉強ならこうも一生懸命にはならないが、いろんな新しい興味のわくような勉強会なら歓迎だ。
昨日、友人と大阪の南港に釣り場の確認と情報収集を兼ねて行って来た。
まだまだサビキ釣りの人が多かったように思うが、夜にはタチウオ釣りの蛍光浮きがあちらこちらに浮かんでいた。
私の趣味の一つに釣りがある。一番最初に始めたのがやはり、サビキ釣りだった。アミエビをを籠に入れてそれを撒きながら疑似餌で釣るやつだ。
釣れる魚はアジ、サバ、イワシだ。それに飽きてくると今度は浮き釣りでハネやメバルやガシラだ。また季節によっては投げ釣りでカレイや底モノのキスなどを釣る楽しみがある。大阪湾のほとんどの釣り場は行けるだけ行った。今ほど設備も整っていなかった時代だ。特に阪神淡路大震災の翌年は異常に釣れた。
神戸の仮設住宅のところから荷物を担いで一時間歩いて釣り場へ。車を仮設住宅のところに置かせてもらって、帰りには釣った魚を仮設の人たちにあげて、何度も行くものだから顔見知りになって、寒い冬の夜など味噌汁の差し入れを頂いた。今から思えば懐かしい思い出だ。アノ人たちはいったい何処へ行かれて、元気にされているんだろうか?もう一度会ってみたいと思った。

ページの先頭へ

2009年09月26日

一流になる条件とは

考えに考え、自分の意見を持ち、知恵を集めることにもたけている。
一流になるためには、まず自分で考える事だと思う。考えに考え、次に多くの人の意見を聞き、もう一度自分で考えて結論を出す。
その作業を、無心で行う。考えて、聞いて、考え、それを実行する。独自の意見を持ち、自分のスタイルを確立していく。
知恵を集める事も必須の条件になる。さまざまな知恵を集めていきながら、その中で最高の知恵を拾っていく。あるいは最高の知恵と、自分の知恵を組み合わせて高めていく。さらに最高の知恵と、他の最高の知恵をカクテルする。そうしてベスト中のベストの知恵を作り出す。多くの情報の中から、最高の知恵を作り出すのである。
また、一流と言われる人は、無理をせず過ちのないように慎重に対処する。心のよりどころとなる判断基準があるからだ。自分よりすぐれた人を心の中に持ち、その人と共に歩むような気持ちで日々を送っている。
人生は決して平坦な道のりではないから、しばしば迷いが生ずる。
そのとき、自分の心の中にいる、そのすぐれた権威ある人物の考えを感じとって石の決定を下す。そうする事によって、限りなく誤りを減らしていく。

ページの先頭へ

2009年09月25日

住めば都と言うじゃな~い

最近読んだ本の中からこんな記事がありました。
大阪の人はとにかく金銭感覚の鋭い人が多いと言う記事でした。
問屋の街の歴史から価格意識が強く、他よりいかに安く買ったかが自慢になるほどだ。
お歳暮に関しても、砂糖など重くてかさばるモノが人気です。だから砂糖など買ったことのない家もあるようです。反面、物惜しみしないし、諦めのよい性格でもあります。
大阪と言えば「食い倒れ」の街で、特に牛肉やフグなどをよく食べます。エネルギッシュでせっかちで行動力があります。
「いらち」でいつも何かをやっていないと気がすまない人が多いようですが、こんな諺もあります。

《京都は過去に生き、東京は現代に生き、神戸は未来に生きる。そして大阪は夕方まで生きる》というような言葉があるように、目先重視の発想が強く、長期展望に欠けるきらいも・・・

《京都十代、東京三代、大阪一代(大阪人になるには一代でなれる)」と言われるように、開放的で気さくだから初対面を気にする人は少ないようです。また大阪から新しいビジネスが多数生まれているように、新しいものにも敏感です。

確かに大阪の交差点の信号は「あと○○秒」なんて表示もあったりして。動く歩道やエスカレーター、エレベーターのスピードも大阪が一番早い設定になっているらしい。

ページの先頭へ

2009年09月24日

「いいこと」と「悪いこと」は背中合わせ

「いいこと」にはきっと、「悪いこと」がつきまくっているものだ。
今はいいことであることも、長い目で見ればマイナスになることがたくさんある。逆に今は悪いことのように思えても、きっとそれはいいことに転じる事がある。
私はずっとそう考えて生きて来た。それが私にとっての元気の源だ。
とても容姿に恵まれた人がいる。美人というだけで得をすることもいっぱいある。若い時期には恵まれた境遇にあるだろう。しかし、そんな人が老いてくると、自分の変わりゆく姿に並より痛みを感じる事になるかもしれない。美人だった頃の記憶がいつまでも付きまとって、辛い日々を過ごす事になるかもしれない。それとは逆に、容姿にあまり恵まれない人でも、自然な変化を穏やかに受け入れる事で、表情がとてもよくなったりする。「若いときはパっとしなかったが、歳を重ねるにつれて綺麗になるなぁ」そんな人もいる。
贅沢に慣れてしまった人は、それを失ったときに打ちひしがれてしまう。勝ち続けて人の悲しみを知らない人は、やがて傲慢な人になりがちだ。マイナスを用心深く避けて生きていくと最後に大きなマイナスにたどり着いてしまう。
もしも今、悪いことに囲まれていたとしても、その経験は必ず自己形成のプラスになる。マイナスの経験があってこそ、人は我慢することを知り、他人に対して寛大になれると思う。
今がマイナスの状況にあっても、それはいずれプラスに転じるのだと信じる事こそ大事な事だと思う。

ページの先頭へ

2009年09月23日

日想観だぁ

今日は秋分の日だ。日想観とは夕日の沈む、その彼方の極楽浄土を思う仏教の法要です。
日本では空海が延歴6年(787年)四天王寺で行われたのが最初だといわれている。
平安時代、四天王寺の西の逢坂(おおさか)のすぐそばまで海が来ていて、四天王寺はその海に沈む夕日を見る絶好のポイントだったという。
四天王寺の鳥居の額には「釈迦如来転法輪処当極楽土東門中心」と書かれています。四天王寺の鳥居は極楽浄土の東門という意味です。そのため、四天王寺の境内から鳥居を見ることは、極楽浄土を拝むということになります。
いつの時代もこうして春分、秋分の日に延々と受け継がれてきた歴史ある法要です。たくさんの人で賑わうお彼岸のさなか、特に日想観はお参りの人が多く西に向って手を合わせる人がたくさん見られます。
歴史に触れられるいい機会なんで時間があれば行ってみたいと思います。
明日からはまた仕事が待っているので、そのための準備をしに仕事場へ行って来るつもりです。こんなにゆっくりとした休みも久しぶりでした。さて来年もSWを楽しみにしようと思ったら今度、こんな連休があるのはまだ数年先だといまテレビで言っていました。

ページの先頭へ

2009年09月22日

自分を見直すにはいい機会なんだけどなぁ

昨日は午前中のみゆっくり出来ました。
午前中のみ?ハイ、午後からは急患の電話が入り診療所で診療していました。
何故だか仕事場が落ち着きます。たまたま隣の部屋の方が引越しをされて、原状回復の工事をしていて、音やら振動が結構していましたが、コレが平日の診察時間でなかったのが何よりでした。
世間ではシルバーウィークとかで休みになっている反面、この休み中に仕事をされている方もたくさんあるんでしょう。サービス業などがそのいい例で、世間の皆さんが休みになると忙しくなって、こうして世の中が上手く回っています。
昨日、友人が息子さんと釣りに行ったと言っていた。早速の釣果はといえば、
サビキでアジが50匹くらいだったとか。彼にとっては大量の部類だ。きっと彼にとってはもっと釣りたかったんだろうけれど必要以上の殺生はイカンと思ったにちがいありません。(何せお彼岸中だから)
今日は久しぶりに会う友人たちとまたワイワイ、ガヤガヤと無駄?有意義?な時間を過すんだろうって思います。
友人の娘さんは映画もカラオケも絶対に一人で行くって言っていました。彼氏と一緒のほうがいいんじゃないって言うと、自分の思うように買い物できないとか、ゆっくり映画も見れないって言っていました。そこの親は絶対に大勢でワイワイガヤガヤするタイプの人で、一人にすると半日ももたないタイプです。
どうしてこんな親からこんな子が出来たのかっていつも言っています。
考えてみれば私も彼と同じで、絶対に回りに誰かがいます。休みに一人って事は今までありませんでした。一度一人ってきっとゆっくりできるんじゃないかと思っているので実践してみたいと思います。(たぶん無理かなぁ)
こんなに連荘の休みって盆か正月かGW位しか無かったから有意義に過せればいいけれど、頭の中はもう、早く仕事に行きたいモードに入っています。
午後から仕事場へ行くような気が、これを書いていてしてきました。

ページの先頭へ

2009年09月21日

まったくの休みは 今年初めてか

朝から墓参りに行ってきた。花屋の稼ぎ時だ。いつもの二倍。コレって普通?
まぁ日頃からお世話になっているところだから、あまり文句を言いたくないがやっぱりつい言ってしまいそう。そんなことがいつまでも続くものではないと思うが、やっぱり???って思ってしまった。
昨日のダンジリ祭りの興奮の余韻に浸りながらまた一年頑張れるって岸和田の患者さんが言っていた。
交通渋滞、交通規制を受けながら友人と大阪南港、堺港、泉大津の汐見、大津川ジリ、忠岡港、貯木場、などあちらこちらでサビキなどの親子連れで賑わっていた。
何だかムラムラと釣り心が刺激されてきた。残りの休みのうちで空いている時間、一度竿を出しに行ってみようか。

ページの先頭へ

2009年09月20日

ゆっくりするのも いいものだ

 今日は岸和田の地車の宮入り。
毎年、けが人が何人も出て先輩の診療所はいっぱいだ。交通規制で車は右往左往だ。男性は勿論、女性も子供も法被姿で町を闊歩している。
子供の乗る乳母車もダンジリ仕様、大手のスーパーなどは特別コーナーを設けているし、昨日、今日は地元では特別な日。何をおいても駆けつける日だ。昔は平日に行われた日など学校、会社は当然休みだ。高校の時などクラスで何人も休んだ奴はすべて岸和田の奴ばかり。しっかり便乗して休んだ奴もいた。
かつてここでも書いたと思うが岸和田が唯一、全国的に名前を知ってもらう時期でもある。カレンダーも9月が一番先に書かれているのは岸和田ぐらいだろう。
ただこの賑やかなお祭りは海側の祭りで、来月は山側の祭りだ。
昨日からシルバーウィークなるものが始まっている。高速は渋滞だし、こんな時こそゆっくりと心も身体もリフレッシュしたいものだ。久しぶりに友人と釣りにでも行ってみようか。日頃、じっとしていない私だがこんなに時間があるとさて、何をしようか。

ページの先頭へ

2009年09月19日

言葉は信じるに足りるものか

《言葉は絶対的なものではない》
人は言葉に左右されすぎている?
最近、言葉とのつきあい方、距離のとり方の下手な人が増えてきているように思う。
どういうことかと言うと、他人の発した言葉に対してうまくバランスを取る事が出来ず、むやみに大きな影響を受けてしまう。
だから、相手の言葉を鵜呑みにして振り込み詐欺にだまされてしまったり、なんでもない一言に想像以上に心を痛めてしまったりする。たしかに、言葉によって元気づけられる事もあるだろう。言葉にそういったプラス面があるという事は、逆にそれだけのマイナス面もあるという事だ。
いくらいい言葉で励まされても、次にイヤな言葉に傷つき、落ち込んでしまうのなら、いつまで経っても言葉に振り回されてしまいます。では、いったいどうすればいいのか。「人が何を言おうが、どう思おうが知ったことではない」そのくらいの気持ちでいることです。そもそも言葉というものは非常にいいかげんまのも。ところが現代は「言葉=真実」と受け止めてしまう人が多いんですね。
例えば、メールやネットで「死ね」と書かれた子供が、その言葉をまともに受けて、本当に自殺してしまったりする。
我々の子供の頃は「バカ」とか「死ね」と言われても平気でしたが、心のどこかで「そんなこと言われても本当の事ではない」という意識が働いていたからです。だから、言葉をまともに受け止める必要はない。イヤな事はかわしてしまえばいいんです。
教養とは、人の心がわかること。だと思っているんですが、いかがでしょうか。人の心をわかろうとする人は、相手の言葉に真剣に耳を傾けるものです。
だから、話すよりまず聴く。こうした言葉との付き合い方が、何かを学ぶにしても、人と関係を築くにしても大事だと思います。

ページの先頭へ

2009年09月18日

ちょっと言ってやりました

先日、友人からこんな相談を受けました
それは友人と奥さんの子供に関して育て方が違うって言うものでした。
友人は自分の経験、体験からノビノビと育てたい。奥さんはやっぱり人並みかそれ以上の成績を取って欲しい、で意見が分かれたと。
親は勝手なものです。もし子供の命が危なければ、他は如何なってもいいから命だけは助かってほしいと願い。不良になれば、どんな成績でもいいから真面目になってほしいと望み、成績がよければ、一流大学や一流企業に就職してほしいと期待し、そして最終的には《バカでもいいから親を大事にしてほしい》と願うようになります。誠に勝手なものです。だから言ってやりました。オマエの学生時代の成績はあまり褒められたものじゃなかったゾ。
子供なんて親の思い通りになんて育ちません。
私の親は聞き分けのよい子になるように私を厳しく育てました。おかげで親の目を盗んで悪い子になりかけたり。学校の成績はそんなに重要なものなのでしょうか。オオカミやライオンやイルカなんかは足し算も引き算もできませんが、多くの人間より生きる知恵をもって立派に生きているではありませんか。
友人の中に学生時代に秀才の奴がいました。小学校も、中学校ももちろんトップの成績でした。高校も超進学校に入って、上位の成績で有名国立大に入り順風満帆なように見えました。そしてこれまた超難関の一部上場企業に入ったまではよかったけれど、そこには全国から選りすぐりのエリートたちの集団。はじめて挫折と言うのを味わったと言っていました。だからこう言ってやりました。
子供の立場にたって考えてやれよ。クラスの成績ははっきり言って悪いかも知れんけどな、先生に当てられても答えられないかも知れんけどな。ほとんどが自分より頭がいいと思いながら、学校に行き、そのなかで先生やクラスメイトと良好な人間関係を築き、自分の生きる道を見つけようと、人一倍努力しているんやゾ。
それは成績を上げるよりも厳しい努力やゾ。
その中で培われる人間性は成績よりも人生を生きる力になるに違いないって、言ってやりました。
子供が懸命に努力しているのに最後の味方の親が尻を叩いたんじゃ子供もたまったもんじゃありませんよね。

ページの先頭へ

2009年09月17日

考えても仕方のないことは考えない

年に二回の断食に行っていますが、その殆どが止観行という座禅で時間を費やします。座禅と言うと何だか辛いとか足が痛くなる、痺れるとか思うかも知れませんが、なかなか良いものですよ。
座禅を組んでいるときは何も考えてはいけない。  そう言われますが、これがなかなか難しいものです。
基本的に、座禅を組むときには半眼といって、目を完全には閉じません。ですから、周りの風景が目に入ってきて、どうしても何か考えてしまいます。「和尚さんが近くにやってきた」とか「もっと姿勢を正さなければ」とか「そろそろ足が痺れてきた」とか、様々な考えが頭をよぎります。
それが当たり前です。そもそも「考えてはいけない」と思っていること自体が考えているのですから。
しかし、座禅を少し経験すると、一瞬ではあるけれど何も考えない瞬間が必ず訪れます。「あれ、今自分は何を考えていたんだろう」とか、そして「自分」という感覚さえも忘れてしまう。これこそが何も考えていない状態です。
ある瞬間、心が透明になっている。余計なものが頭から消え去っている。ふっと透き通った世界に入っていくような感覚。心が軽くなるとは、こういうことなのです。
ふと「自分を忘れる」瞬間が大事になってくるのです。
そして気持ちを上手に切り替える事こそが、あなたにとって大事な事ではないでしょうか。
また、「必要な無駄」もある。
例えばお寺や神社へと続く参道には、必ず幾つもの門や鳥居があります。
お寺なら、総門、中門、三門という三解脱門などを通って、やっと本堂へとたどり着く。神社もまた、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居などがあります。
どうしてこんなにも無駄な設えをするのか。
いや、それらは「必要な無駄」であるのです。
門や、鳥居は「結界」と呼ばれています。つまりは二つの世界を結んでいるという事。この「結界」を一つまたぐごとに、清らかな世界に近づいていくわけです。これらの事を「浄域」という言い方をしますが、空間の清らかさが「結界」ごとに高まっていくのです。
ですからお寺の三門は必ずまたぐように出来ています。
ただすっと通るだけではなく、高低差をつけて、わざわざまたぐようにしてあります。それは「またぐ」という行為によって「浄域」に入ることを実感させるためなのです。
たとえば通勤時間も「必要な無駄」と考えてみる。「プライベートの自分」と「仕事の自分」のスイッチを切り替える。これが《無駄だけれど必要な時間》です。
気持ちを上手に切り替得る事も大切ではないでしょうか。

ページの先頭へ

2009年09月16日

信念を持つ そしてそれを継続する事が大事

これだけは絶対に譲れない   生き方の芯とか、信念とかいったものを持つ人は、多少のことではへこたれません。
では、人生の芯はいかにつくっていくか。それは人生の先輩たちから学んでいくものです。
特に人生の大先輩であるお年寄りからは、学ぶべき事がとても多い。成功した話であれ、失敗した話であれ、それに耳を傾けることは必ず自分の栄養になります。
ちょっと注意して周りを見回せば、たくさんのお年寄りがいらっしゃる。一人ひとりに、それぞれの人生がある。自分がこれまでの人生で学んできた事の何倍、何十倍の経験と学びをその一人ひとりが持っているのである。これは凄い事だと思います。
お年寄りの話は、自ら経験してきた物事を語っているから尊いのです。本の知識でもなく、誰かに聞いたわけでもなく、自らの心と身体で経験した話。ノンフィクションの話のなかに、必ず生きるヒントが見つかるでしょう。
話は変わりますが、イチロー選手の快挙にマスコミも挙って拍手喝采を送っていますが、その中でこんな話しがありました。
それは彼が毎日毎日のルーティンを非常に大事にしているという事です。当たり前と言えばそうなんですが、コレができる事が凄いと思います。いろんな誘惑があって当たり前なのにそれを全て自分のためであって当然のごとくやってしまうところに彼の凄さがあるように思います。オフのときにも一人で球場に足を運んで黙々と練習しているという。人の見ていないときにする練習がその人の隠れた力を引き出し、いざと言うときに今までやってきた練習の成果が出る。彼曰く、「一日でも休めば身体が元に戻るのに時間がかかる。だから休みの日でもこうして身体を動かしておかないと試合に間に合わない」彼が言うから説得力があって、彼ほどの天才といわれる人でも日々の努力が今の彼をつくっているんだと思う。

ページの先頭へ

2009年09月15日

成長するということは  by加藤諦三

夏はもう終わっているのに「夏に海に行っておけばよかった」といつまでも言い続けている人。
車のバックミラーを見て運転すれば誰でも事故を起こす。でも前を見られないのが、(イタイ病気)になる人である。
心理的に健康な人は、(イタイ病気)になるような人は前を見られるのにバックミラーを見て運転しているのである。
過去に拘るのは、今、動けないから。
「もういい加減にしろよ」と言いたいほど過去を引きずって生きているのは、先に進めないからである。
彼らは今何をしていいかが分からない。自分が何をしたいのかが分からない。過去にしがみついて、その先に進めない。それは憎しみが消えないからである。ことに幼児期の憎しみはなかなか消えない。
人の心の心理的成長を止めるのは憎しみである。憎しみを持った者はその時から心理的成長を止める。
冬が来て潔く散っていく銀杏の葉を見ていると「執着してはいけない」ということを教えられる。しかしなかなか散っていかない葉もある。葉が散るのが嫌で木にしがみついているようなのが人間でいうと執着性格であろう。
葉は散るから来年もまた綺麗に芽が出てくる。耐えるとは葉が散って、また秋が来るまでじっと待つという事である。
冬の木枯らしに耐えるのにエネルギーを使うことが生きるという事である。しかし心が痛んでくると木枯らしに耐える事にエネルギーを使わないで、散るまいと木にしがみつく事にエネルギーを使ってしまう。
そして散ってしまうと時を待たないですぐに芽を出そうとする。
人間は捨てる事が大切である。そして成熟する期間を耐えることである。そうして成長していくのである。心が病んでくると使うべき場所でない場所でエネルギーを使ってしまう。
イタイ病気になるような人は銀杏で言えば散り際の下手な人である。

ページの先頭へ

2009年09月14日

お父ちゃんも大変なんだなぁ~

先日、友人の娘さんたちが友人を交えて居酒屋で食事をしたという。
聞けばそこの下の娘さんも一緒に居酒屋に行ったと言う。
その友人、待つのがキライ、不味いものはキライ、周りの煩いのがキライ、だからきっと居酒屋は居心地が悪かったと思っていたが、そうでもなかったらしい。何でも奥さんが所用で出かけていての間に姑息にも娘の彼氏とメシを食べに行くという暴挙に出た。あとで嫁さんにばれた時の事を思うといささか怖ろしい気もするが・・・
その友人ともよく居酒屋に行く。彼は酒は飲まない、タバコは吸わない、でも食べる事には人一倍ウルサイ。そんな彼が居酒屋にそれも娘の彼氏と行くなんてこと想像もできない。何でも下の娘の塾の時間の都合で夜の10時をまわってからの時間になったと言っていた。また内容はじっくりと聞くとして娘と彼氏と一緒に食事に行くと言う気持ちって想像がつかない。いたってうるさいこの友人、まして娘に彼氏が出来たと聞いたときの驚きようは今でも忘れはしない。何故なら、散々ぼやかれたからである。でも今はなかなかいい関係を保っていると言う。何でも嫁さんと友人で娘の彼を取り合っていると言う。(早く見方につけようとしているらしい)
でも娘を持つ親としては、まだ下の子もいるんだからそんなに取り合いをしないでもって思ったりした。でもしょうがないか、彼の家はお婆ちゃん、嫁さん、そして娘さんが二人。飼っているペットまでもがメス。お父ちゃんも大変なんだなぁ。

ページの先頭へ

2009年09月13日

岸和田だんじり祭り 一週間前

このごろは朝夕がしのぎ易くなって二度寝してしまいがちだ。
昨日、患者さんの娘さんが前からヘルニアであちらこちらの病院通いをしていると聞いて、岸和田の先輩の診療所を紹介した。幾つもの診療所を受診しているから大体のことは把握していたのに、ここの診療所は違ったとか。また何かヘマをしたんじゃないかって心配していたが、何とあちこちで散々受けた治療ではなかなか治らなかった腰の痛みが一回の治療で半減したと言っていた。
そこの医院は院長はともかく(失礼)スタッフが素晴らしい。看護士、レントゲン技師、マッサージの先生、受付・・・こんなに素晴らしいスタッフがいてりゃ先生が少々・・・(失礼)でも気分よく治療に専念できると思う。まぁ院長にしても若い時にアフリカにボランティアで行かれていたし、医療は算術なんて事はこれぽっちも思っていない?先生だからお任せしていれば大丈夫ですよ。
見た目はチョット厳つい感じですが、腕は保障します。まぁ言葉は悪いですがねぇ。同じ先生でも小児科や産科や心療内科のような優しい先生ではないけれど、根は優しい先生です。(あまり褒めすぎか)外科や整形の先生って怖いってイメージありますよね。歯科でも口腔外科の先生って怖いってイメージを持たれがちですが、顔じゃないですよ、人間性です。こんな先生でも自分の治療では自ら表面麻酔を持ち込んで自ら粘膜に塗っているような先生です。来週は岸和田のだんじり祭り、毎年のことですが土日に診療をしているここには多くのけが人が運び込まれて来るんで今週はゆっくりできればいいですね。私も今日、治療に伺いますのでヨロシク。
当医院の患者さんがその岸和田祭りに行くという。ちゃんと秘密の見学場所があるという。TVでも何度も紹介されている有名な場所ではなく、地元の人しか知らないような場所らしい。迫力のあるやり回し、各町、で一体になって曳くだんじりに暫し浮かれてみるのもよしとしよう。

ページの先頭へ

2009年09月12日

様々なペット事情です

久しぶりの雨。
今日はお山で夏期大学が始まります。残念ながら今回は仕事が入っていて参加は出来ません。でも《山の行より里の行》って言うではありませんか。里に残ってしっかり御行に励みましょう。
さて昨日は友人宅での今年最大の一大イベント、猛獣の部屋移動の打ち合わせがありました。そこのお宅には凄いのが居りまして、その移動計画を着々と立てております。さてどうなる事やら。
皆さんいろんなペットを飼ってられると思いますが、(話しが急に変わりますが)どうでしょうか?我々の友人のペット紹介をいたしましょう。
イヌ、ねこ、フィレット、カメ、金魚、熱帯魚、鳥、昆虫、・・・
まぁこんなところでしょうか。でも今までで一番驚いたのはさて何だと思いますか?流石の私も見たときには思わず息を呑んでしまいました。それはもう二十数年前になりますが、その友人のマンションで飼われていたものです。初めはなんとも思っていなかったんですが、ちょっとトイレを借りに行った時に風呂場からなんともいえない匂いがして、何度目かの時に聞いてみました。
なんだかトイレの臭いが風呂場からするゾって。はじめは友人は気のせいだとか言っていましたが、決して風呂場を見せようとしませんでした。だんだん怪しくなってきて、それもそうなんです、その風呂場の入り口には鍵がかかっていたんです。
このマンションは確か動物を飼ってはいけないはずだから、何か飼っているなってすぐにピンときました。
でもマンションの入り口にはイヌ、ネコお断りの看板もあったんでイヌ、ネコではありません。風呂場で飼えるのもなんです。
その答えは何と《ワニ》でした。バスタブの中にはなんとワニがいてるではないですか。何でも昔、夜店で釣ったのをもって帰って来て水槽がないから風呂場で飼う事になったと言っていました。
でも今ではどうなったんでしょうか、それ以来そのマンションには行っていないし、その友人も引っ越したんでそのワニちゃんも如何した事やら。でも上には上がいるんです、その友人の連れと言うのがまたコレがなんともいえないほどビックリするようなペットを飼っていたんです。それもまた風呂場で飼っていたんですが、一度だけそこに行って見せてもらったら何と何と・・・ラッコでした。
もうその時の驚きたるや・・・でした。結局、飼えなくなってしまって某水族館に引き取ってもらったそうです。なんで引き取ってもらったんだと聞いたら何とその答えは「エサ代がメッチャかかりよる オレよりエエもん食いよるからや」でした。

ページの先頭へ

2009年09月11日

どんな時でもあなたの修行と心得よ

「穢土(えど)の一日の修行は、深山の千日の修行に勝る」
穢土とはこの世の事で、醜い、穢れた中で生きていく苦労は、一人っきりで深い山の中で千日間の修行をするよりも、もっとたいへんなことだといっている。 全く同感である。
天台宗には「千日回峰行」という荒行があり、法華経には「百日行」があり、禅宗では長い期間の「座禅行」があり、真言宗には「求聞持法」という厳しい行がある。
いずれも、一人っきりで己の肉体の苦痛に耐え、心におこる煩悩の炎をおさえる修行である。しかしこの世は「忍土」といわれるとおり、何事も我慢しなければならない事ばかりである。
修行とは、行を修めると書く。行いを正しくすることである。
ここでいう行いとは正しい言葉を遣い。正しいものの考え方をし、正しい行動をする事である。
自分では正しい行動と思っていても、他人から見てみれば???ってこともあるかと思う。なんだか今のこの国に似ている。
今まで野党で何でも与党のいう事には反対、反対って行っていたある党が、今度は与党になったとたんに急に態度を変えるのとはいささか違うかもしてないが、我々国民有権者がしっかりと監視してみようではないか。理想は理想であって実現できる事は国民のためになる政策はどしどし実行していって欲しい。
来週には新しい内閣の顔ぶれも出揃うのでしかとお手並み拝見しよう。

ページの先頭へ

2009年09月10日

宝を打ち出す魔法の槌とは「怠けず励む」生き方のこと

七福神の二番目、大黒天。
これは古代インドの暗黒の世界の神様です。
中国に渡って「戦勝の神」になったと言われています。
日本に移ってきて大国主命(おおくにぬしのみこと)、これを音読みすると「だいこく」となるので、大国主命と同じように考えられています。
動物のネズミは、こもこもと動いて穀物を食べますが、大黒天の使いもネズミであるのはまた面白い取り合わせだと思います。
大黒天は手に槌を持っておられます。この槌を振るといくらでも、鼠算のようにお金が出てくると言う意味ですが、一球さんはそれに対してこういっています。

(この槌は 宝打ち出す槌でなし なまくら者の頭打つ槌)

決してお金が出てくるものではない。怠けていてはいかんゾ、
という事を大黒天に掛けているのです。これは精進の教えです。
野菜料理を「精進料理」といっていますが、本当の意味の「精進」とは、励む事です。「精」は米偏に青いと書く。お米がつきあげられて、青く美しくなる事です。「進」は怠けずに進めということですから、「頑張る」ではなく「励む」のほうがいい。「頑張る」は「我を張る」、自分の主張をするということで、あまりいい言葉ではありません。

大黒さまが頭巾をかぶっているのは、上を見ずに下を見よという意味です。上を見ると次々に欲が起きるから下を見よと。
大黒さまが肩に担いでいるのは堪忍袋です。現代人はキレやすいですから、大黒さまの堪忍袋を拝借しましょう。

ページの先頭へ

2009年09月09日

「足ることを知る」淡白さを身につけることが 大きな幸せなり

七福神というのは七柱の神様の名前で、中には実在しないフィクションの神様も含まれています。
室町時代には「七福神の教え」というのがあって、その教えを守ると、「家内安全、福の子が授かる」というので、元旦の晩には、七福神を乗せた宝船を書いた絵を枕の下に入れて眠ったそうです。

初めが恵比寿さま。恵比寿さまは鯛を釣っていらっしゃる。それで釣り人や漁師さんは恵比寿さまを信仰します。ところがよく見ると、恵比寿さまはたった一匹の鯛のほかには何も釣っていない。
ここに大事な教えが示されています。
江戸時代、九州博多の聖福寺にユーモアのある名僧・仙崖和尚さんが住んでいました。絵が上手でしたので、たくさんの人が紙を持ってきて、「絵を描いてくれ」と頼みます。仙崖和尚がやりきれなくなって、こんな狂歌を詠んでいます。

《うらめしや我が隠れ家は雪隠か 来る人事(ごと)に紙置いて行く》

そしてまた仙崖和尚は恵比寿さまを描いて詠んだ狂歌では

《足ることを 知ればこそあれ福の神 鯛二匹釣る恵比寿鳴ければ》

これこそが、満足をわきまえて、それ以上の欲を持たないことが一番肝要だということです。

また、恵比寿さまが鯛だけを釣っていらっしゃるのもまたユーモアの隠し味で、人間は、食べタイ、買いタイ、行きタイと、いろいろな欲望を持っているが、「足ることを知る」淡白さを身につけよと。
知足を学ぶことが大きな幸せであるという教えを読み取りましょう

ページの先頭へ

2009年09月08日

心の休ませ方  by加藤諦三

生きることに疲れたあなたは休みながら三つのことを自分に質問してみる事である。
一つは、もしあなたは明日死んでしまうとしたら、今自分は何をするか?
その人たちに気に入られるために最後の力を振り絞るだろうか?
もう一度疲れた身体に鞭を打つだろうか?
そうではないだろう。「この嫌いな人のことなんかどうでもいい」と思うのではないか。人生は一度しかない。本当に一回。
本当に人生は一度しかないと思ったら、自分を無理に欺いて、人に迎合するだろうか?あなたは今まで「人生は一度しかない」と本気で思ったらあなたは生き方が違ってくる。

次に今付き合っている人について「この人たちとどういう人間関係で終わるのか?」とかんがえてみる。
この人は自分が歳をとったら世話をしてくれる人か?自分が事故にあったときに面倒を見てくれる人か?
そう思ってその人たちを見たら、誰が誠実か不誠実かは少しは分かるかもしれない。

最後に生きることに疲れた人は、人に褒められる事が嬉しい。
人が自分に注目してくれる事が嬉しい。そこで自分を見失う。
自分のエリアの中で心楽しむ事を知っていたら人に裏切られたとか自分を理解してくれないと思うこともなかったはずだ。
小さい頃「いい子」であった子供が大人になってから挫折する時も同じである。疲れ果てて一人ポツンと「いったい、俺は今まで何をしてきたんだろう?」と考える時があるほうが自然だろう。生きることに疲れたあなたがそれを口に出さないとすればどうしてだろう。そう考えないあなたは、まだその人たちの期待に応えられないことを恐れているのか、あるいはその人たちを恨んでいるからであろう。
これらのことから言えるのはあなたは自己執着から疲れたのである。そこをこの機会にに反省して、自分の行き方を変えようと思わなければ、回復してもまたいつか先にいって同じように生きることに疲れてしまう。
あなたは確かに必死になって努力してきたであろう。しかしいったい「誰のタメに」努力してきたのか?そこをもう一度考えてみる事である。

ページの先頭へ

2009年09月07日

心の持ちようって 大事な事です

すべての人が「これがしあわせだ」といえるものが、この世ににはあるでしょうか?例えば誰かが「幸せだ」といっても、他の人から見たら「幸せでない」と言うかもしれません。
仲間たちと一緒に食事をしたり、何かを見たり聞いたりした時に、そこで「幸せ」を感じる人は、その人にそう感じる「心」があるからでしょう。「幸せ」は感じた人のみ、そこに存在する。感じた人のみ「幸せ」が生まれる。という構造になっているそうです。
同様に、「不幸」というものも、現象も、この世には存在しません。
どんなにお金持ちで恵まれた環境にいる人でも、本人が「不幸」だと思えば、それは「不幸」な事になります。逆にお金が無くても、状況や環境が他の人から見てひどいものであっても、本人が「幸せ」を感じていれば、それは「幸せ」になります。それらは他人が決めることでも外的なもので決まるでもなく、その人自信の「心」が決めているのです。
幸せは、その人のみに帰属するものであり、幸せが見つからないといっている人は、その幸せを感じる心を動かしていないだけかもしれません。だから、それらはその事を受け止める側の「心」がその現象の価値を決めていることになるんじゃないでしょうか。
捉え方の違いで目の前の現象は「幸せ」にも「不幸」にもなるという事のようです。

ページの先頭へ

2009年09月06日

さあ九月になって頑張らねば・・・

今日は朝から庭の植木の薬撒き、剪定。
やっと終わったと思っていたら今日はお寺さんが来られる日。
ゆっくりとした日曜日になる日が朝からバタバタだ。
昨日は生玉さんで彦八祭りがありました。上方落語の祖、米沢彦八の功績を称え
6代目笑福亭松鶴の命日にちなみ生玉神社で彦八の碑を建立を気に開催されるようになりました。当医院の代診の先生が大学の落語部出身だということもあり、一度は行ってみたいと思っていたが今回は何とか時間に間に合ったので参加することが出来ました。いつもご贔屓している落語家さんも来るというので一緒に行くことにしました。身近に落語家さんたちと会うことが出来るのでたくさんの方が来られていました。
さあ、これから買い物に付き合わされてホームセンターまで行くことに、また余計なモノを買わないように釘をさされていましたが、はたしてどうなることやら。

ページの先頭へ

2009年09月05日

ちょっと難しい上下関係について

一般社会の中で、上下関係があると言われているのに、親子関係、上司と部下、先生と生徒、医者と患者です。これらの関係もある概念があれば、行き詰る事もなくスムーズにいけるといわれています。それらに共通の関係とは、それぞれには指導的で優位な立場でありそれを社会が認めています。しかしそれだけでは、人間関係はスムーズに流れていきません。それは上に立つ人が下の人から尊敬されるという概念がないとダメだと思います。しかし上に立つ人が、尊敬されるような人格を持っていない場合、その人間関係はかなりの確立で行き詰っていきます。
たとえば、親は、親と言うだけで、子供に対して威張ってはいないでしょうか?上司は上司という立場を利用して偉そうにしていないでしょうか?先生の生徒に対してむやみに威張ってはいないでしょうか?医者もしかりです。
一方、上下関係の下の人にも同じことが言えます。
ある大学生がこんな事を言ってきました。
自分のやることを親がいちいち口出しをしてくるので鬱陶しい。
だから私はその学生にこう言いました。
あなたより人生経験の豊富な親御さんが、何時までも細かいことを言うのは、必ず訳があるんじゃないですか。そしてこう聞きました。
あなたは大学の時に何か資格を取りましたか?これなら誰よりも詳しいって事ありますか?その答えはすべて「NO」でした。それでは親御さんが心配されるのも当然でしょうって言いました。
だからそれらの上下関係の中にはお互いの尊敬する気持ちって言うのも存在するんじゃないでしょうか。

ページの先頭へ

2009年09月04日

なかなかこうはいかないものだなぁ

新潟市に「北方文化博物館」というのがあります。
ここは、もともと新潟県下一の大地主であった伊藤家の屋敷でした。今は伊藤家の子孫が館長をしています。
数人でそこを訪れた時、伊藤館長は、庭にある築山を見ながら、懐かしそうに子供のころの話をされました。
その築山は、高さ5メートルほどのものなのですが、造るのに3年半かかったというのです。ブルドーザーを使えば2時間でできそうなのに、どうして3年半もかかったんでしょう。
実は、数十年前、この築山を造るにあたり、当時の伊藤家の当主が、近郷近在の人によびかけて、「車や機械を使わずに、土は手で運んで欲しい」と要請したそうです。幼い子供も、おじいちゃん、おばあちゃん、何百の人が、機械を一切使わずに、手だけで外から運んだそうです。そして、幼なかった伊藤館長が中学生になった時に、近所の農家からこういわれたそうです。
「あなたの家には、命を助けられました」
その当時、たまたま越後平野は不作が続き、付近の農家は辛く苦しい状況でした。当主は、その人たちが長く仕事に従事できるように「土は手で運んでくれ」と言ったのだとか。
手で運ぶなら、小さな子供も、お年寄も働き手に加わることが出来たので、家族が多い人ほど実入りがよかったようで、「築山を造ることをやってくれたおかげで、一家心中しないですみました」という家が、何百世帯もあったそうです。
その話を耳にした伊藤館長は、家の人に「そういうことだったの?」と聞いたら、そのとおりだったそうです。
《いくら困っていても、お金をあげてはいけない。それはプライドを傷つけることになる》
代わりに仕事を造ってあげることで、自然に無理なくその仕事に従事することができる。というものでした。
お金を持っていても「どうやってお金を集めようか」と考えている人ではない。ということでした。
「いつ、どのような時にお金を使うか」
「どうしたら喜んでもらえるか」を常に考えていたのです。
いざという時に、このようなお金の使い方ができると、まわりの人たちは、自分たちが困った時に、この家から仕事という形でお金が流れてくるのですから、「この家に富んでもらいたい」「裕福であり続けてほしい」とおもうのではないでしょうか。


   最近読んだ「100%幸せな1%の人々」から

ページの先頭へ

2009年09月03日

時代が変われば いろいろと変わるものです~

昨日友人宅にそこの娘さんの彼氏が来た。
何でも彼氏の誕生日にTDLに行くと言う。まぁちゃんと了解を取っての事だから、外野がとやかくいう事でもないが、隠れて行かれる位ならちゃんと報告を受けたほうがいい。(でもチョット複雑)
彼氏の家でもそのことは了解済みだということで、友人の方も一安心。何でも彼氏の母親の実家に寄って来ると言う。オイオイそこまでいってんのかいって友人絶句。まぁ隠れて付き合うよりはちゃんと紹介してもらったほうが何かと安心だ。その友人曰く。自分も昔付き合っていた彼女とは両親も兄弟にも反対されてイヤな思いがあったとか。それならちゃんと紹介されて、親も認めてくれた付き合いならOKせざるを得ないんじゃないかって。(納得)
自分の周りを見回してみたら、時代が変わったと言うか、時代は繰り返すというか、我々の世代も息子、娘が同じような事で話し合っているなんて何て複雑な思いがしたといっていた。そもそも外泊なんてもってのほかって言う家もある。まして学生の身分で、嫁入り前の娘が彼氏と旅行なんて我々の時代なんかでは考えられなかったものだ。この先いったいどのような世の中になるのか末恐ろしい。
でも結局は彼ら彼女らの作戦勝ちみたいなことである。何故か?
友人曰く。我々の時代には門限と言うものがあった。(今でもあるところにはあると思うが)ここが問題だ。その友人はその当時付き合っていた彼女の家が非常に厳しい家だったんで、確か30年ほど前だがその当時で7時が門限だといっていた。生活が多種多様になった今7時が門限なんていったら、生活が成り立たない。でもそこは彼の思いついた答えはと言うと、ちゃんと門限に家に帰りさえすればそれまでは自由だとか。何をか況やだ。だから彼に言ってやった。
ウソを付いたら最後まで付き通さないといけないから大変やろうって。そうしたらすかさず彼はこう言いました。ウソも最後まで突き通せばウソでなくなるって。アララ、この親にしてこの子ありですわ。

ページの先頭へ

2009年09月02日

こんな時こそ こんな一言

朝夕はしのぎやすくなってきました。
今年も1/3を残すところとなりました。
今年の春はいつ解散総選挙だろうか?とか、今年の夏は猛暑だとか、いろいろ外野が煩いようでしたが、解散は先延ばしに延ばし、結局は自民党の大敗で幕を閉じました。いったい誰がこんなことを予想したでしょうか。夏場においても異常気象で長雨が続いたり、ゲリラ豪雨なる言葉が珍しくなくなったり、あちらこちらで突風やら竜巻の異常気象が起こったり。今年は気学上は変革の年だとか。
日本は四季のある誠に良い気候の国なのに、いつのまにか亜熱帯気候の国に変わりつつあります。
あちらを立てれば、こちらが立たず。物事には必ず裏表があります。例えば高速道路を無料化にすればフェリー業者が悲鳴をあげたり、国産の良い品物が外国からの安い品物に取って代わったり。
昔の日本はもっと住み良い国だったように思います。嘗て、ある漁師さんに聞いたことがあります。それは自分や家族が食べるだけの量しか捕らないとか。必要以上のものは捕ってしまうと自然の生業を壊してしまうとか。何でもそうかもしれませんね。《腹八分目に医者要らず》 我々にはチョット耳の痛い言葉ですが、本来の人の生き様をあらわしているように思いました。またこんな事も言われています。証券業界での諺ですが《頭と尻尾はくれてやれ》コレなどもお腹の美味しいところは頂いて、頭や尾っぽまでも喰らうような事はしてはいけないって事。言いえて妙ですね。
日本人は昔から慎みのある民族だと言われてきました。量産量産と効率ばかりが良い事のように取りざたされていますが、本来は質の良いモノを少しだけ、こんな言葉ももう死語になってしまったんでしょうか?前のも書いた事があると思いますが、瀬戸内寂聴さんの法話で《忙しいとは 心が亡くなると書きます 忙しさに感けて心を亡くしてはいませんか》

ページの先頭へ

2009年09月01日

このスイカは甘いか  食べてないからわかりませ~ん

今日、朝一の患者さんは元税務署の署長さん。退官されてからはゴルフと家庭菜園に明け暮れていると言う。今日は早速、取れたての野菜をくれる訳でもなく、収穫の写真を見せていただいた。
今年一番の収穫はスイカだそうだ。直径4~50センチはあろうかという大きなスイカだ。今まで採れた中では最高の甘さだそうだ。
でも取れすぎて、捨てれなくて困ったとか。熟れ過ぎてヒビが入りかけて、早く食べないと美味しい時期を逃してしまうと、毎日毎日スイカ三昧だったとか。そして治療の最後に患者さんがこう言われました。
「先生 スイカ好き?」
「エエ まぁ」
「そう だったら今度来る時に持ってきてあげるよ」
「ありがとうございます」
「でもね 家庭菜園ってたいへんなんですよ」
「そうでしょうね」
「土から肥料から水やりから、そんな事思ったら買うほうがきっと安いよ」
「そうなんですか」
「でもね 一生懸命に育てたのはねぇ また格別なんですよ」
「で、先生はスイカ好き?」
「ハイ 大好物です」
「そう それはよかった」
「・・・」
「先生も一度 やってみたら?」
「そうですね やったといったらカイワレとミニトマトと そんなところですか」
「そう やっぱりスイカとか白菜とかやったらいいよ」
「はい」
「で、スイカも好きって言っていたよね」
「はい」
「今度 採れたら持って来ようか?」
「エエ 無理でなければお願いします」
「う~ん そうしたら来年の夏にスイカって言ってよね」
「・・・」
「今聞いてもきっと忘れると思うから」
「・・・」
「それじゃ また」
オイオイ 今 くれるんじゃないんかい。写メまで見せといて。

ページの先頭へ